ツール・ド・フランスその4

紙の中のロードレースその12

ツールでの痛い話

ツールでレース中骨折した選手と言えば、最近だと2003年のタイラー・ハミルトン。
私に世代で直ぐ思い出すのが、1975年のエディ・メルクス、1983年のパスカル・シーモンとかがいますな。

更に調べるともっといまして、例えば、2013年に奇跡の出版になった
ツール・ド・フランス 100回 グレートヒストリー ~祭りの日々~』
(p.89)にも出て来る
オノーレ・バルテレミ(Honore Barthelemy)
( 参考→ http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=966 )
はもっと痛い目に遭ってます。

1:
バルテレミのツールの成績は新城君なんかとは比べようもなく素晴らしい。
1919年のツール。
第一次大戦後最初のツール。
初めてマイヨージョーヌが使われたツール。
この年、全15区間中、4区間で優勝。
最終成績は5位。
体調が良かった様で、ツール開始前の体重は69㎏、終了後が68㎏。
この年の優勝者のランボ(Firmin Lambot)は64㎏で始まり、63㎏で終わったのと同じく1㎏しか減りませんでした。

2:
そして、翌1920年のツール、7月11日(日)、ペルピニャン(Perpignan)からエクサン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)へ向かう325㎞の第8区間。
この区間でバルテレミは落車。
顔から地面に突っ込み、出血、ふらふら。
再び走り始めるますが、腕と背中は痛いし、目は霞む始末。
暫く進むと背中と腕に痛みで前傾姿勢が取れず、ハンドルの上下を反対にして走り続けました。

更に進むと大変な事に気付きました。
何と、目が霞んでいるのではなく、片目が見えなくなっていました(@_@)。
先程の落車で燧石(すいせき=火打石)の破片が目に刺さったのです。
この時、肩を骨折し手首を脱臼しているのはまだ分かっていませんでした。

バルテレミは棄権することなく、アルプスを初め残りの区間も走り切り、総合順位はフランス人最高の8位でした(@_@)。
この年のツールは優勝したフィリップ・ティス(Philippe Thys)を筆頭に、7位までをベルギー人が占めましたから、
ケガをしながらも完走し8位になったバルテルミをゴールのパルク・デ・プランスで大歓迎したのを想像出来るでしょう。

3:
今の考え方ならこの時点でバルテレミは引退でしょうが、しませんでした。
1927年まで現役を続け、
なんと翌1921年のツールでは第12区間(ジュネーブ~ストラスブール、371㎞、7月18日(月))で区間優勝、
最終総合成績は3位!
オマケにフランス人最高位!

義眼を付けて走ってました。
歩いてる時や路面状態がいい道路では問題有りませんでしたが、砂埃には弱かった。
走ってる時に埃っぽい道になると、義眼を外し脱脂綿を眼窩に入れてたとか。
涙がちゃんと出ないのでそうしないと、目が爛れました。

4:
1924年のツールでの話。
この年にツールは、オッタビオ・ボテッキア(Ottavio Bottecchia)がイタリア人として初めて優勝。
ペリシェ兄弟がデグランジュの独裁的な運営とルールに怒り、ボイコット、棄権。
棄権直後にペリシェ兄弟から話を聞きプチ・パリジャン紙(Peite Parisien)に記事を書いたのがアルベール・ロンドル(Albert Londres)。
「街道を走る徒刑囚」(Les forcats de la route)と言う題名に埋め草記事にすぎませんでしたが、大反響を呼びました。

ロンドルはその後、第五区間(レ・ザーブル・ドロンヌ~バヨンヌ、482㎞、6月30日(月))で道路脇にいるバルテレミを発見、記事に書きました。
次の様な内容だったようです。


その男は自転車ではなく、顔を治していた。
義眼を外して拭いていた。
理由を尋ねると作ってから4か月しか経たず、慣れてなくて、目やにが出るそうだ。
痛いかと聞くと、
痛くはないが、脳みそが漏れてくると答えた。

義眼は完璧ではなく、落ちる事も決して珍しくはない。
バルテレミがゴール後に屈んで義眼を探したのも一回や二回ではなかった。
レースで賞金が入ってもレース中に失くすと代わりに新しいのを買わなくちゃならんので、
何のためにロード選手を続けているのか分からなくなる事もある。


5:
こういう歌われぬ英雄、ロードレースの巨人、街道の巨人、Geant de la Route、がいるんですなぁ。
感嘆の溜息がでます。


参考文献
上記に奇跡の本以外では、

Pro Cycling
La Fabuleuse Histoire du Tour de France
The official Tour de France Centennial 1903-2003



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朝日新聞夕刊第一面の一番目の記事がツール・ド・フランス!

2013年6月29日(土)
何と、朝日の夕刊の第一面の最初の記事がツールの紹介!

まぁ、今年のツールが100回目だし、他にデカい事件も無かったからねぇ…
グーグルのトップページもツール100回関連だしね。

ツールは1975年から知ってるけど、日本の主要全国紙で第一面の最初の記事になったのは、
地球が出来てから初めてじゃない?

熱心なロードレースファンとは言えない私ですが、それでも何やら嬉しい。

オマケにさいたま市で今年10月26日(土)に、
さいたまクリテリウムバイツール・ド・フランス
をやるとか
(参考→ http://saitama-criterium.jp/ )

毎日TVで各ステージを生放送されるし、エラく変わりました。

変わらんのはロードレースのジャーナリズム。
語学力皆無で勉強不足甚だしい。
この40年間で変化無し。


タグ ツール・ド・フランス 第100回 朝日新聞 さいたまクリテリウムバイツール・ド・フランス


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ツール・ド・フランスその3

紙の中のロードレースその11

1989年の逆転

1:
1989年のツールは最終第21区間(7月23日(日) ヴェルサイユ~パリ 24.5㎞)のタイムトライアルで、
グレッグ・レモン(Greg Lemond) がローラン・フィニョン(Lauran Fignon)に58秒差を付けて区間優勝。
前日の時間差は50秒でした。
つまり、1分48秒も差を付けたのです。
総合では8秒差で逆転優勝。

2:
この時、フィニョンは実は股ズレで苦しんでいたのです。
単にレモン対し力負けしたのではありませんでした。
第19区間のエクス・レ・バンにゴールした頃から痛み始め、最終日前夜は苦痛で殆ど眠れなかった様です。

3:
このタイムトライアルでレモンのギア比は多くの本では54×12になっています。
(シャニ―が書いた”Tour de France 1989”では55×12)

(参考→ある本ではレモンは55にしてくれと言ったけどメカニックは監督と相談してそれはいくらなんでも大き過ぎるとなり、
55に替えた振りをして54のままにしておいたと書いてあります。
その本を探したんですが、無い(@_@)。と言う訳でこの件は不明なのでカッコの中に入れておく参考にしておきます(笑))

そして特別に付けたのが、ブーン・レノン(Boone Lennon)が開発したスコットのクリップオン・バー(Scott Clip-on(aero) bars)。
市販品ではなく手作りの試作品。

レノンは最終日前夜初めてシャンゼリゼを車で走りました。
道路のデコボコ振りに驚き、こんな所で持って来たクリップオン・バーが持つか不安になりました。
一つのサイズしか無く、袋一杯分のシムで全ての選手用に合わせようと考えていたからです。

4:
最終日当日、選手のウォームアップエリアでレモンはクリップオン・バーを掴むと全身に力を込めて引き付けました。
レモンが首や両脚の血管を浮立たせる程力を込めているので、レノンは
「グレッグ、そんなに力を入れないだろう」
レモン、
「いや、一踏み毎にこれ位引くぞ」

すると、クリップオン・バーが動いた(@_@)。
下手をするとスタートに遅れるかもしれないと思ったら、一人のメカニックがコークの空き缶を拾ってきてハサミで切り、
シムとして挟みました。
そしてボルトを捩じ切れる寸前まで締め付けました。
(→この時のレモンと自転車を正面から撮った写真を見ると、左右のクランプとハンドルの間に赤い物が写っています)

5:
ウォームアップエリアでレモンが走り始めると、フィニョンも走り始めました。
フィニョンはレモンの後をしつこく付いて行きましたが、しばらくして二人がレノン達の視界から消え次に現れた時、
レモンの方がフィニョンの後に付いていました。

最終区間は24.5㎞のタイムトライアルで時間差は50秒も有ったし、試作のクリップオン・バーも走行中に緩む恐れも有りましたから、
レノンの方はレモンはもう諦めたかもしれないと思ってたんです。

これを見たレノンはレモンの奥さんのキャシーに、
「ねぇ、これはいけるかもよ」


6:
さて、フィニョンの方の話。
13㎞地点で21秒遅れになっていました。
最初はレモンとの時間差を教えられていたのですが、13㎞地点以降は誰も教えなくなりました。
時間差が分からなくなり、リズムを失ってしまったとフィニョンは言っています。


参考文献
BICYCLING
Cycle Sport
Maillot Jaune,the Tour de France Yellow Jersey
Tour de France 1989
The official Tour de France centennial 1903-2003



タグ ツール・ド・フランス 1989年 グレッグ・レモン ローラン・フィニョン ブーン・レノン クリップオン・バー


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ジロ・デ・イタリアその1

紙の中のロードレースその10

ジロ・デ・イタリアその1

ステルヴィオ峠

1:
イタリア語で
Passo dello Stelvio
ドイツ語で
Stilfser Joch
標高2,758m

南西の麓の町が
ボルミオ(Bormio)
標高1,217m
距離19㎞
標高差1,541m
平均勾配7.3%


北東の麓の町が
チェングレス(Cengles)
(独語でTschengls)
標高887m
距離23㎞
標高差1,871m
平均勾配7.0%

1:
1975年は私が初めてスポーツ用自転車を親に買ってもらった年。
(→丸紅山口のべニックスSX-1027。27インチ(!)のスポルティフ。サイズ560㎜)
同時にサイスポ誌とニューサイ誌を読み始め、数軒の自転車店に足繁く通うようになりました。
その中の1軒がロードレーサーに比較的力を入れている店でミロワール・ド・シクリスム誌(Miroir du cyclisme)やケネディ兄弟社のツールとジロの各年の本を売ってました。
写真が多かったミロワールで初めて見るヨーロッパの選手達とロードレーサーのカッコ宜しいこと、カッコ宜しいこと、一目で虜になりました(^.^)。

1975年のツールの総集編も運良くTBSで放送されました。
(→次に放送されるのは1982年。最近興味を持ち出したの人達には想像出来ないでしょう)
そして翌1976年、衝撃の本と出逢います。
ジロ・デ・イタリアの本です。

2:

イギリス、ケネディ兄弟社刊『ツアー・オブ・イタリー 1975』(Tour of Italy 1975)。

当時の英語力は問題外の低さで読んでみようとさえ思いませんでした。
そんな訳で、パラパラ捲って行くと立山アルペンルートの毎年の開通直後の様な雪の壁の間を登って行く選手の写真がかなり入ってました。
そして、凄い写真が有りました。
雪の斜面の中の九十九折れの道を俯瞰で撮った写真です。
晴れているのは分かりますが、標高2,400m以上です!
先頭の選手(ガルドスFrancisco Galdos とベルト―リオFausto Bertoglio)、関係車両、そしてそんな冬山みたいな所に観客!(ざっと見ても写真の中に数百人)
雪の白、道路と人と車両の黒と灰色、三色の強烈な対比。
非常に美しい白黒写真です。
こんな標高の高い所でこんな雪の有る時にレースとやる主催者の熱意
(→当時は自転車専門誌を半年以上読み、また自転車屋の大将にイタリア人のアホ振りと熱狂を聞かされ「熱意」ではなく「アホ」だと思ってました(笑))、
それにこんな所へこんな時にわざわざ見に来る観客の熱意と愛情
(→これも「アホ」だと思ってました(笑))
も痛い程伝わる写真です。

数年後、読んでみるとこの年に最終区間第21区間のゴールがこのステルヴィオ峠だとか(@_@)。
頂上ゴールだけでなく、最終区間のゴールも峠の天辺。
こんな最後、他のレースで見たことなし、聞いたことなし(溜息)。

当時は「スゲェ~」と思いましたが、その後10年以上経って英語の実戦を兼ねて英語でロードレースの本を読みまくると、「過酷この上なし」と思いが変わりました。

3:
この写真に衝撃を受けたのは私だけではない様です。
最近サイスポ誌に写真を提供しているグレイアム・ワットゥスン(=グラハム・ワトソン Graham Watson)もその一人に違いないと私は思ってます。
殆ど同じ構図の写真を1994年のジロで撮っています。
ワットゥスンの写真集、
“20 years of cycling photography”
VELO press刊 2008年
のp,126の全面写真。

1975年の例の写真に衝撃を受けたとしか思えんです、私には。
特に雪の部分を白く飛ばし雪を強調している点ですね。

4:
次にステルヴィオ峠を目にするのは、1980年。
ジロの第20区間、ルノーチームのベルナドー(Jean-Rene Bernaudeau)とイノー(Bernard Hinault)が逃げ、ベルナドーが区間優勝した時。
見た雑誌はミロワール・ド・シクリスム誌の年間総集編、”Livre d’or”(=黄金の本)。
当時1冊\1,300程して、中々手が出ない雑誌でしたが、1年のレースがまとめて載っているので無理して買いました。

イノーは前年1979年秋にロンバルディア一周に勝ち、イタリア人にクラッシクレースに強いところを見せつけ、
更に敵地イタリアでグランツールにも勝ち誰が現在のロードレースの支配者か思い知らせてやりました。

後年イノーのインタビューを読むと、このステルヴィオの下りで、ベルナドーは、
「あいつ(=ベルナドー)はいかれてたな。カーブになっても全然ブレーキを掛けないで行きやがった。」

まぁ、こんな感じで私にとってイタリアの峠、ドロミテの峠と言うと、「ステルヴィオ」になりました。

5:
そして自転車以外でもこのステルヴィオ峠は出て来ます。
例えば私が持ってる本だと、カーマガジン誌2001年12月号。
アルファロメオ147の試乗記。
コースがミラノからステルヴィオ峠
自転車乗り達が写っている小さな写真も載っています。
記事を書いた齋藤浩之氏は、頂上で撮影を済ますと、ガヴィア峠を目指したとか(@_@)。


参考文献
上記以外では、
La fabuleuse histoire du cyclisme
La veridique histoire des Geants de la Route
Tour 80
L’annee du cyclisme 1975,1980
Dictionnaire du cyclisme
ジロ・ディ・イタリア 峠と歴史



タグ ジロ・デ・イタリア ステルヴィオ峠 ガヴィア峠



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ミラノ~サンレモその1

紙の中のロードレースその9

ユジェーヌ・クリストフミラノ~サンレモ

1:
クリストフ」と言えば私の世代だとフランス製のトークリップとトーストラップ。
安いのから高いのまで数種類ありましたな。
こんな遥離れた日本でも売ってた位ですから、引退後は金銭的には苦労しなかった様です。

2:
ミラノ~サンレモは私が最初に知った本場ヨーロッパのロードレース。
40年前の1973年、島野工業提供の自転車TV番組『素晴らしき自転車野郎』でこのミラノ~サンレモが取り上げられたはずです。
でも記憶が定かでないので、ひょっとしたらやらなかったかも(涙)。

3:
さて、クリストフは20世紀初頭のロード選手ですから、事故や事件は付き物で、この方はその中でも特に有名。
1913年第11回ツール・ド・フランス
7月9日(水)第6区間バヨンヌ~リュション(Bayonne~Luchon)
326㎞
ツールマレ峠で自転車のフォークが折れ、自転車を担ぎ麓のサント・マリー・ド・カンパン村(Sainte-Marie-de-Campan)までの14㎞を歩いて下りました。
そこの鍛冶屋でフォークを修理。
修理時間は4時間弱。
ツールマレ峠の頂上を首位で通過したのに、リュションへゴールしたのは首位のフィリップ・ティス(Philippe Thys)に遅れる事3時間50分(@_@)。

4:
クリストフミラノ~サンレモでも痛い目に遭っています。
1910年第4回での事。
この日は気温が低かったのですが、レース前半は道路の泥に悩まされました。
(→当時の道路事情はどこでも未舗装で悪かった)
しかし、最初の難関のトゥルキーノ峠を登り始めると雪が降り始め自転車から降り歩いて登りました。
この登りで先頭集団の選手は寒さのために一人また一人と棄権していきます。
峠を越えると雪が20cmも積もっていて場所によってはもっと積もっていました。
自転車で下れなくなると再び歩き始めました。
しばらく進むと腹痛になり片手で自転車を掴み、反対の手で腹を押さえて道路脇の岩に寄り掛かりました。
その内に寒さで体が動かなくなり、出来るのは首を左右に動かすだけになってしまいました。
その時クリストフが考えていたのは、このレースで優勝出来なかったら幾ら損するか。
自分が厳寒に晒され凍死の危機にいるのに気付いていませんでした(@_@)。
するとそこへ一人の男性が通り掛かりそのまま過ぎ去ろうとしたので知っているわずかなイタリア語で叫びました。
“Signor, signor, casa, casa!”
(→君、君、家、家!)
クリストフは案内されると言うよりは、引き摺られて建物へ連れていかれました。

その小さな建物は実際には小さな宿でした。
薪ストーブのそばでラムのお湯割りを飲みながら体を動かし手足の血行を良くしていました。
その間も窓から目を離さず他の選手を警戒していました。
25分後、宿主から長ズボンを貰うとここにいた方がいいと言う宿主の忠告に耳を貸さず再び走り出しました。

この時点でクリストフを抜いた選手は4人。
この4人をクリストフは「泥だらけの袋」とインタビューで言ってますから天候と道路状況がどんなもんだったか想像出来ます。

結局クリストフは4人を抜き優勝します。
12時間24分
281㎞
平均時速23.33kmh

平均時速が大会史上最低で当日の状況がよく分かります。

この後クリストフは低体温症のために1ヶ月入院。
更に真面にレース出来るようになるまで2年掛かったとか。

5:
Geants de la Route
「路上の巨人」とロード選手を敬意を込めてフランスでは呼びますが、1910年のミラノ~サンレモで優勝したクリストフは正にその典型。


参考文献
La veridique histoire des Geants de la Route
La fabuleuse histoire du cyclisme
La fabuleuse histoire du Tour de France
The official Tour de France centennial 1903-2003
A century of cycling
Ascent, the mountains of the Tour de France
ツール100話、ツール・ド・フランス100年の歴史


タグ ミラノ~サンレモ クリストフ 素晴らしき自転車野郎 トゥルキーノ峠


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ツール・ド・フランスその2

紙の中のロードレースその8

ロバート・キャパツール・ド・フランス

1:
私がロバート・キャパがツールの取材をしたのを知ったのは、アメリカの”Inside Cycling”誌が月間で定期刊行される前の準備号。
1986年の事でした。
(→この雑誌はその後どうなったか不明。現在ネットで検索しても出て来ません)
その後、1988年文藝春秋から『キャパ その青春』(原題”ROBERT CAPA : A BIOGRAPHY” リチャード・ウィーラン(Richard Whelan)著、沢木耕太郎訳)が出て早速確認しました。
そうしたら、書いてある、書いてある(^.^)。
間違っていませんでした。
奥付けを見ると著作権の発生年が1985年になっています。
つまり”Inside Cycling”の筆者は”ROBERT CAPA : A BIOGRAPHY”を読んでいたと考えて間違いありません。

キャパの本で有名なのは自ら書いた従軍記『ちょっとピンぼけ』ですが、この本は1942年から書かれているのでツールの取材については書かれていません。


2:
キャパが取材したのは1939年、第二次世界大戦前の最後の大会。
初めて山岳タイムトライアルが行われた大会。
(→但し、頂上ゴールではなし。第16区間その2 ボネヴァル・シュル・アール~ブール・サン・モーリス(Bonneval-Sur-Arc~Bourg-St-Maurice)
64.5㎞ イズラン峠2,764mを超える)

キャパは“パリマッチ”誌の依頼を受け取材。
(この時の原稿料は、お金ではなく欲しかったモーターバイクを貰ったとか)

その時撮った写真は、キャパの本や写真集によく載る様です。
私が持っている写真集には、少しですが載っています。
ロバート・キャパ展 “戦争と平和” 1984年 (p,63 小さな版で2枚)
ロバート・キャパ全作品展 1997年 (見開きで2ページ 8枚)
★CAPA’S EYE ロバート・キャパの眼が見た世界とニッポン 2004年 (見開きで2ページ pp.26~27 2枚)

載ってる写真の殆どは『キャパ その青春』に書いてある通り選手ではなく観客の写真。


3:
選手よりも観客の写真が多いのは世界中がキナ臭い頃だったからでしょうか?
それともスポーツに関心があまり無かったからでしょうか?
子供好きだったのは確かです。(→CAPA’S EYE p,77)

ツールの「周辺」の写真です。
一般的なツールの写真とはちょっと種類の違う写真です。
お暇な折にご覧になって下さい。


参考文献
上記以外では、
The official Tour de France Centennial 1903-2003
La fabuleuse histoire du Tour de France
Grands cols, les montagnes du Tour de France a velo


タグ ツール・ド・フランス ロバート・キャパ



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ミシュランのタイア

紙の中のロードレースその7

ミシュランのタイア

1:
19世紀後半、自転車が生まれ、自転車レースも始まり、その頃から自転車や自転車部品を作り、今でも作っているメーカーと言えば、

タイアのミシュラン

自転車のプジョー

自転車のビアンキ

くらい。

今回のお題は、ミシュラン


2:
ランドナーが身近な自転車だった私の世代でミシュランと言えば、650Bの赤タイアと白タイア。
非常に主張の強い色のタイアなんで一般的ではありませんでした。
私はウォルバーの「スーパーランドナー」を使ってました。


3:
次にミシュランの名前が大きく出るのが、1985年。
700Cでパンクに強く、トレッドがつるつるのスリック、しかもWO(=クリンチャー)の「ハイライト(HI-LITE)」シリーズが発売された時。
ロード用では80年代に入るとアメリカのアヴォセット(Avocet)や日本の井上タイアがパンクに強いWOを出しましたが、主流になるのはまだ先の話。
ハイライト以前の700CのWOは細い物が無く(→25Cが一番細かった)、またケーシングが硬かったため乗り心地とコーナリング性能が悪かった。
これらの欠点を解決したのが、ハイライトでした。
それでも値段が高価だったし(→1本\6,200)、トレッドが摩耗に弱く減るのが早かった。

個人的には使わず友達の車輪を使わせてもらっただけでした。
WOに変えなかった理由は金額。
当時は5本\5,000のチューブラが有り使い捨てで使ったり、
ケーシングとチューブの間にポリウレタンの薄いベルトを入れたウォルバーの「SP-1」シリーズもありパンクにも比較的強かった。
ネオプロSP-1は1本\2,500程でしたな。

またWOを使うにはリムとスポークを変える必要があり、これも躊躇する理由でした。
(注:スポークはそのまま使えますが、耐久性を考えるとリムを交換する時に同時にスポークを全部変える方が無難)


4:
さて、ヨーロッパのロードレースで「ミシュラン」の名前が最初に出るのが、
パリ~ブレス~パリ
1891年9月6日(日)
1,200㎞
参加選手206人
午前6:17スタート
優勝:シャルル・テロン(Charles Terront) 71時間18分(=2日23時間18分!)
9月9日(水)午前6:35ゴール
使用タイア:ミシュラン製取り外し可能空気入りタイア

まぁ、この辺まではミシュラン特約店のHPにも書いてあるので、更に詳しい事を。


4-1:
19世紀末、無垢のゴム製タイア「ボーンシェイカー」(=bone-shaker=骨を揺るがす物)に対し、
スコットランドのジョン・ボイド・ダンロップ(John Boyd Dunlop)が「ゴム製のチューブに空気を入れ布で保護する」タイアを開発し、
特許を取りました。
このダンロップが開発した「ソーセージ」と呼ばれたタイアはボーンシェイカーより衝撃と振動の吸収性に優れていましたが、
リムに糊付けしてありパンクの時には無数の工具を使い複雑怪奇な手順を行わねばなりませんでした。
そのため修理の説明書は60ページにも及びました。

1889年のある春の日の昼下がり、フランスのクレルモン・フェラン市のミシュランの工場に自転車と自転車乗りを乗せた牛車が到着。
ダンロップのソーセージの1本がパンクしてました。
工員達はまだ珍しかった空気入りタイアに好奇心を刺激され、困った自転車乗りのために一肌脱いでやろうと奮闘しました。
おかげで修理は3時間で終わりましたが、糊の乾燥に時間が掛るので引き渡しは翌朝になりました。
(→現在のチューブラと同じ物と思われますが、詳細不明のため「糊」と「糊付け」にしました)
翌朝引き渡しの前、ミシュランの社長エドゥアル・ミシュラン(Edouard Michelin)はこのタイアに非常に関心が有ったので、クレルモン・フェラン市街へと走り出しました。
しかし、数分後戻って来ました、自転車を押しながら。

このパンクがエドゥアル・ミシュランのタイアを改良したいという興味に火を点けたと言っていいでしょう。

エドゥアル・ミシュランが掲げた目標は、
「15分以内にチューブを交換する。
方法は単純にする。
専門家を不要にする。
言い換えると、一般人が頭を悩ますことなく自分で修理できる取り外し可能タイア」

2年間の試行錯誤と努力の結果、3件の特許を含み完成。
3件目の特許の日付は1891年8月14日。
パリ~ブレス~パリのスタートの24日前でした。


4-2:
ミシュラン社はパリ~ブレス~パリには、実は、最初にテロンではなくこのレースで2位になるジョゼフ・ラヴァル(Joseph Laval)に接触しました。
ラヴァルは当時ダンロップと契約中であったのとミシュランの革新的取り外し可能タイアは現物が無く設計図しか無かったため契約しませんでした。

さて、ミシュラン社はテロンのパリ~ブレス~パリでの勝利がゴール前日に明らかになったので宣伝用のチラシを作りテロンがゴールすると同時に観衆に配りました。

4-3:
パリ~ブレス~パリでテロンはブレスの手前60㎞のモルレクス(Morlaix)でパンクしレースに復帰するのに42分掛かりました。
ミシュラン社はこの事実を見て見ぬ振りはせず、更に改良を重ねました。
その結果を発表したのは3か月後の12月、ロンドンのスタンリー自転車ショー(Stanley Cycle Show)でした。
このショーでミシュランの技術者は1分55秒でタイアを外し、来客にも実際に外させました。
速い人だと2分、遅くても4分で外せました。
他のタイアメーカーがこのデモンストレイションを見せ付けられどう思ったか想像に難くありません。

このタイアがミシュランの「デタッチャブル」(Detachable)です。

この事をキッカケにミシュラン社は大いに発展していくのです。


4-4:
当時のミシュランを率いていたのは、2人の兄弟でした。
兄がアンドレ・ミシュラン(Andre Michelin)で、建築家を目指していましたが広報と渉外を担当。
弟がエドゥアル・ミシュラン(Edouard Michelin)で、画家志望でしたが、開発と生産管理を担当。

5:
ツール・ド・フランスとミシュランで私の世代が思い出すのは、最近は見掛けなくなったキャラバン隊のビバンダム(Bibendum)の着ぐるみ。
やっていたのは、1973年から1989年まで。
モーターバイクに乗って立ち上がり両手を上げたり等の軽業を演じていました。
このモーターバイクで17年間軽業をやっていたのは、フィリップ・シャピュイ(Philippe Chapuis)。
ローラースケートの元フランスチャンピオンだそうです。



参考文献
La fabuleuse histoire du cyslisme
The Michelin Man, 100 years of Bibendum
Cycle Sport
Pro Cycling
Bicycle Club 1985年9月号
Miroir du cyclisme
Winning bicycle racing illustrated



タグ ツール・ド・フランス ミシュラン



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テーマ : 自転車ロードレース
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マルティン・”コチセ”・ロドリゲス・グティエレス

紙の中のロードレースその6

マルティン・エミリオ・“コチセ”・ロドリゲス・グティエレス
Martin Emilio “Cochise” Rodriguez Gutierrez

コロンビア史上、最強の選手。
サンチャゴ・ボテロ(Santiago Botero)以上の成績を残した偉大なコロンビア人。
御存じの方、いますかな?

1:
まず、詳細な記録は、
→ http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=2096

1942年4月14日生まれ、

主な勝利
1971年 世界戦アマ個人追い抜き

1973年 ジロ第15区間
     トロフィ・バラッキ(ジモンディと共に)
1975年 ジロ第19区間

そして、
1970年 アマアワレコード(屋外)
    メキシコシティー
    10月7日
    47.553㎞

2:
森師匠の若い頃、こんな凄い人がコロンビアにいたとは…(溜息)。

1961年、19歳の時に母国のヴエルタ・ア・コロンビアに初出場し最終成績が総合2位。
当時のコチセを知ってる人の話では、19歳にして既に完璧なロード選手で、最近の選手に例えるとミゲール・インドゥラインみたいっだそうです。
誰が見ても将来大物になるのが分かる選手だったらしい。

一人で走る時の快速振りは素晴らしく、
1968年(24歳)の時、メキシコオリンピック個抜きで当時の4,000m記録を破った4人の一人でした。
そしてロードでは、9位。

3:
メキシコでアワレコードに挑戦した時、資金と自転車を提供したのが、ジャチント・ベノット(Giacint Benotto)。
(→モゼール(Francesco Moser)が1977年世界戦プロロードで優勝した時の自転車。翌1978年には、パリ~ルーベにも優勝)
おそらくこの提供がアマ規約に抵触したらしく、1972年の世界戦には出場不可。

4:
そのため翌1973年にプロに転向。
チームがビアンキ・カンパニョーロ。
チームメイトだったジモンディ(Felice Gimondi)やリッター(Ole Ritter)がコチセについて語った事をまとめると、

登る技術が大変良かった。
それだけでなく平地では集団を50kmhで引く事も出来た。
逃げの集団を引き戻したい時にコチセに頼むと、コチセは馬鹿デカいギアを踏んでいったものだ。
これもトラック競技のおかげだろう。
もしコチセが22歳か23歳の時にヨーロッパに来ていたら、チームのリーダーになりジロの2区間優勝よりもっと優勝出来ただろう。
コチセはスプリント力も有り、山にも強く、タイムトライアルでも速かった。
もし自分のために走れたら、もっと多くのレースで勝てた。
またコチセはいつも機嫌が良く、チームの中では歌ったり冗談を言っては皆を和ませていた。

5:
日本人ロード選手が逆立ちしても勝てない無名のコロンビア人。
世の中には凄い人がいるもんです。


タグ ロドリゲス コチセ アワレコード



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ツール・ド・フランスその1

紙の中のロードレースその5

ツール・ド・フランスその1

『最下位と棄権』

何事も「カッコいい」とか「キレイ」とか「可愛い」だけを追い掛けていると飽きやすい、熱が冷めやすい。
ロードレースも同じで優勝選手やカッコいい事だけにしか関心が無いと直ぐに行き止まります。
TV中継のカメラに映らない「歌われない英雄」達もチャンピオン達と同じ位興味深い。
「カッコ悪い」時代のレースと選手も現在のものと同じ位興味深い。

エディ・メルクスとVANの栄光を知ってる最後の世代の一人の私ですが、昔程熱狂してはいませんが、それでも未だにロードレースと選手に興味が有ります。
そんな私が40年程も興味が続く理由を考えると、昔の「カッコ悪い」レースと「歌われない英雄」達に興味が有るからです。

今回はツールの最下位と棄権した選手の話。

1:
「区間優勝!」その1

総合順位最下位の選手が区間優勝したのを聞いたことある?読んだことある?見たことある?

私は有りませんでした、この人の話を読む迄。

ピエール・マティニャン(Pierre Matignon)
1943年2月11日~1987年11月1日
(詳細→ http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=5080 )

プロ生活3年間で優勝したのは、

1回

だけ。
それが、
1969年7月18日(金)
第56回ツール・ド・フランス
第20区間
ブリヴ~ピュイ・ド・ドーム
198㎞
6時間49分54秒

しかも、ゴールが山の頂上(@_@)。
距離11㎞で標高差965m。
平均勾配8.8%。
最大13%(残り8㎞~7㎞)。
最後の5㎞は平均11%。

マティニャンは残り90㎞位のシャヴァノン(Chavanon)の登りで逃げ、残り30㎞地点では5分差を付けました。
この時点で追跡が始まりましたが、残り20㎞地点では、7分30秒にまで広がりました。
しかし、ピュイ・ド・ドームへの登りが始まる残り10㎞地点でメルクスも追跡開始。
全盛期のメルクスですから、この追跡は速く付いて行けたのは、プリドール、それにマティニャンのチームメイトのポル・ギュティ(Paul Gutty)のみ。
残り1㎞の標識が見えた時点でついにマティニャンがメルクスグループの視界に入りました。
メルクスは更にペースを上げると残り500m地点でプリドールとギュティが千切れました。
マティニャンは蛇行しながらも全力を振り絞り、メルクスを抑え区間優勝。

鬼の様に強かったメルクスに勝ったんですから、
マティニャンに優勝を喜んでガッツポーズなんかする余力も無くストラップを緩めながらゴールするので精一杯。

…こんな選手とレース、二度と現れんね。


2:
「区間優勝!」その2

この記事を書くので色々読み直したり、ネットで調べると、何と、もう一人いた(@_@)。

1947年7月16日(水)
第34回ツール・ド・フランス
第18区間
レ・ザーブル・ドロンヌ~ヴァンヌ
236㎞
7時間10分7秒

ピエトロ・タルキーニ(Pietro Tarchini)

(参考→ http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=7110 )

マティニャンみたいに、派手なメルクスがいなかったから全然目立ちませんでした。
シャニ―の”Le fabuleuse histoire de Tour de France”にも書いてないみたいだからなぁ…


3:
「ブルーム・ワゴンの車内」

悲喜こもごもなんですな、ツールを棄権するのは。

1986年のツールから。

ディーツェン(Dietzen)の場合。
1時間も泣いていた。
ドライバーもゼッケンを回収するツール役員も声を掛けられなかった。

ディル・ブンディ(Dill-Bundi)の場合。
ツールマレーを登る区間で、スタートすると直ぐにブルーム・ワゴンに近付くと、
「登りが始まったらよう、直ぐ止めるからよろしくな。」
ブルーム・ワゴンに乗ると、
「何か飲むもん無い?え、コーラ?赤ワインないの?」

サルヴィエッティ(Salvietti)の場合。
峠をいくつも超えるある区間で。
ドライバーの話。
「あいつは変な奴でな。自転車にまた乗って峠を下りたがってんだ。
なんでだって聞くと、『バカ、他人が運転する車じゃ怖いからに決まってんだろ』
それで下りの間中ずっとイタリア語で言ってたぜ。
『Piano,piano,piano』ってな。」
(→蛇足「ゆっくり行け、ゆっくりな、ゆっくりだゾ」)


参考
Winning Bicycle Racing Illustrated
Pro Cycling
Cycle Sport
Ascent,the mountains of the Tour de France
Cols mythiques du Tour de France
The official Tour de France centennial 1903-2003
Grands cols,les montagnes du Tour de France a velo
La fabuleuse histoire du Tour de France



タグ ツール・ド・フランス


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パリ~ルーベその3

紙の中のロードレース その4
パリ~ルーベその3

今回は取材陣から見たパリ~ルーベのお話。
写真家グレイアム・ワットゥスン(=グラハム・ワトソン、Graham Watson)と組んでるモーターバイクの運転手ルーク・エドワーズ=エヴァンス(Luke Edwardes-Evans)の話。
CYCLE SPORT誌2008年6月号の記事から少々抜粋。
モーターバイクの運転手の話なんて他に読んだことが無いんで、本当は全文を紹介したいんですが、著作権の関係で無理。

入ってる写真からモーターバイクのエンジンの下にアルミ板を付けてるのがハッキリ分かるし、
セルヴァース・クナーヴェン(Servais Knaven→“Servais”は”Servaas“と発音すると本人のインタビューで言ってました)のジャイアントはカンティブレーキ付きなのも、
ハッキリ分かります。

1:
まず、エヴァンスのお住まいはフォークストーン(Folkstone)。
フォークストーン駅(多分Folkstone Central)の近くだそうで、海峡トンネルが出来てからはパリ~ルーベ、フランドル一周、ガン~ヴェヴェルゲンへは通勤可能。
時々、テレビを観ながら夕飯を食べられる時刻に帰って来られる。

2:
ASOは主催するレースの中でパリ~ルーベでだけ取材モーターバイクにオフロード用の使用を義務付けしている。
エヴァンスはトライアンフ・タイガー955iを使用。色はタンゴオレンジ。

3:
ある年のレースでは、石畳の石に前輪が当たりパンクしたと思わせる様な硬い衝撃が走った。
パンクはしなかったが、衝撃でフォークが少々歪みハンドルが少し横を向き、最後までそのまま走った。
さらに左側のバックミラーまで緩んだ。
逃げの集団を撮影する時、距離を目測するための唯一の道具なのでこれには参った。


…文章の引用で許されるのは15文字×15行程度なので、こんなもん。
…もっと知りたい人は同号を探して読みましょう。但し、英語です。

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パリ~ルーベその2

紙の中のロードレース その3
パリ~ルーベその2

1:
「1985年」

私が初めてパリ~ルーベの動画を観たのは、え~と、アメリカで放送された1985年のレースを家庭用ビデオで録画したもの。
1986年のことだったと思います。
その時の優勝者がマルク・マディヨ(Marc Madiot)。
現役時代のインタビューは読んだことなかったんですが、引退後のインタビューは中々面白い。
この方、「その1」で書いた選手の出力等ではなく、精神的な事を話してます。

2:
「脚や自転車ではなく、頭だ」

いくつかのインタビューと記事をまとめると次の様になります。

 パリ~ルーベはロードレース創世期の特徴を残している唯一のレースだ。
 あの酷い路面のおかげで戦術を考えても、レースが始まれば無いのと同じだ。
 だから誰が勝つかどのレースよりもハッキリしている。
 一番強く、一番ツイテいる奴が勝つ。
 少なくとも、一番強く、一番運が悪くなかったのが勝つ。
 ルーベで勝つには運が必要で、だから調子のいい選手はパンクしない。
 こんな感じだから勝とうとすると縁起を担ぐようになる。
 10年間同じホテルへ泊まり、食堂の同じテーブルに着く。
 同じテーブルの同じ席に着くことまである。
 伝統と言うか、儀式なんだな。
 
 気持ちの持ち方や考え方が大切だ。
 
 俺にとってロードレースは神からのお召し、天職なんだ。
 神父になる人間みたに俺は昔からロード選手になるのが分かっていた。
 
 選手の体格は問題ではない。大切なのは苦手意識を持たずレースに集中する事。
 嫌だとか怖いとか思ってると石畳に集中出来なくなる。
 自ら進んで苦しもうとしなければ勝利へは近付けない。
 
 このレースの戦法は単純だ。
 前の選手の車輪に近付き過ぎるな。
 他のレースと違い横にいる選手にも近づくな。
 常に車間距離を保ち自分の前の選手のラインから目を離すな。
 
 他のレースでは最後の数㎞で体の奥深くから力を絞り出せたと聞くことがあるが、
 ルーベとフランドルでは決して起きない。
 ルーベのベロドロームに着いた時、疲れ切っていなかったら、
 全力を出さなかった証拠。
 
  大事なのは、脚や自転車ではなく頭だ。
 
 
3:
マディヨによるパリ~ルーベ優勝のための心得十ヶ条」

 1、ルーベへ向けての強化策を日課にしろ。そして続けろ。
 2、石畳の区間は全て調べる。アランベールの森から先だけでは不十分。
 3、天気を調べ、天候に合わせて機材を変える。
  (→例:インナーは追い風なら46tか47t。向かい風では45t)
 4:レース当日は最初に天気を調べ、必要なら装備、機材を全て替える。
  面倒がるな。
 5、精神的に苦しむ事に備えろ。優勝するためのカギになる。
 6、100%集中してなかったら、走らないで他の事をやれ。
 7、最初からルーベを好きになると思うな。初めて走った翌日、思ってた程ではないが好きになってるものだ。
 8、石畳を200m走ると、自分の調子が分かる。
 9、走る時は、周りの選手に近付き過ぎるな。先の事を考えて走れ。一人の選手でなく選手のラインに付いて行け。
  残り1㎞で思いかけず脚が残っていたなんて甘く考えるな。ルーベで無かったら、無い。
 10、運が自分に向くように祈れ。勝ちたいと思わなければ運は自分の方へやって来ない。


今は監督だから選手にこんな事教えて最高の状態にしてパリ~ルーベに出走せてるんです。

4:
「4勝」

今年2012年のパリ~ルーベボーネンが勝ち通算4勝になり、ついにロジェ・ド・ヴラマンク(Roger De Vlaeminck)の記録に並びました。
でもなぁ、今は選手の給料が上がり自分に向いたレースしか走らなくなった時代だから フランドルと石畳のクラッシクにしか勝ってないんだよなぁ。
ツールの区間優勝とスプリント賞、世界戦も勝ってることは勝ってるけど、やはり、不満。

ランボルギーニとかフェラーリをロード選手でも買える時代だから選手もやわになるわい。

5:
「猛練習」

ボーネン(Tom Boonen)はプロ1年目の2002年にパリ~ルーベに出て2位になって騒がれましたが、
ヴラマンクはプロになった1969年、最初に出たレースがヘット・フォルク(Het Volk)でそのまま優勝。
水曜日にプロライセンスをもらい、日曜日にヘット・フォルクに出てそのまま優勝。
2週間後のガン・ヴェベルゲン(Ghent Wevelgem)では2位。
そしてベルギー選手権では、優勝。

こんな感じで今のところヴラマンクの方が私には遥かに印象的、魅力的。
そんなヴラマンクのインタビューと記事の中からパリ~ルーベに関する物をまとめると、

 心と体を鋭敏にしておく事、機材に気を配る、猛練習。
 これが重要な事だが、その中で何よりも重要なのが練習だ。
 春のクラシックレースに備えて冬の間中練習していた。
 天気が悪かろうが関係無い。
 デルニに引張ってもらうのもやった(→デルニは自転車にガソリンエンジンを付けた物。大昔の日本の本物の「原動機付き自転車」と同じ)
 時々レースまで走って行き、レースが終わってからも走って帰った。
 だから3月や4月のレースの日に1日で300㎞とか走った日もある。
 レースの帰りにデルニに引いてもらったこともある。
 
 レース前のスケジュールはこんな感じだ。
 1週間前の日曜日→レース
 月曜日→休養
 火曜日→休養
 水曜日→レース
 木曜日→休養
 金曜日→レースをすることもある。パリ~ルーベのスタート地点へ移動
 土曜日→午後に練習。気持ちをレースに向けられる。
 日曜日→レース当日
 
 最近の選手はレースの事をまず学んで知識を付けるとかよく言ってるが、優れた選手なら直ぐに勝てる。
 年齢は関係ない。
 現役時代はそう思っていた。
 
 シクロクロスの世界戦で、アマとプロで1回づつ優勝してるからか、
 よくシクロクロスが役立っているかと聞かれる。
 ある意味では役立っている。
 自転車をコントロールするのが巧くなる。
 自転車をジャンプするやり方を学べば、実際石畳を走る時に使える。
 シクロクロスのチャンピオン全員がパリ~ルーベに優勝してるわけではない。
 この事実から分かる通り、シクロクロスをやってるだけでは優勝出来ない。
 優秀なロード選手になる方が重要だ。
 
 石畳でスピードを上げる時はいつも体をかがめようとした。空気抵抗の対しても有利になる。
 石畳の上では自転車を自分が行きたい方向に行かせるとき、自転車を軽く動かしてやる必要がある。
 そのためにはハンドルを軽く握る事。
 それ以外には俺は肘を曲げて衝撃を吸収し自転車を自分の下で跳ねさせていた。
 
 レース中は常にレースをコントロールしようとした。
 パリ~ルーベでは先頭にいる選手しか勝てず、勇敢な選手が有利だ。
 そのためには石畳区間でスピードを上げ攻撃しなければならいが、エネルギーを無駄に使ってはいけない。
 頭を使うのだ。
 常に走りやすい所を探す。
 荒れ具合がましな石畳、道路脇の盛り土、避難所みたいに木が生えている所なんかだ。
 
 自転車に関しては特別なものは使ってない。
 いつも使ってる物だ。
 ポジション、車輪、ギア比、全て同じ。
 モゼールみたいにバーテープを二重にすることもない。
 パリ~ルーベでも同じ感覚の自転車にしていたいからだ。
 
 ただタイヤだけは別だ。
 普通より太いタイアを数年間寝かせておいてゴムを硬くしてから使う。(クレメンの「パリ~ルーベ」だね)
 
 それと自転車はメカニックが調整した後、入念に自分でも調べる。
 
 おかげでパンクは14回走って、1回だけだ。
 
 後は、ケーキだな。
 ケーキは大好きでパリ~ルーベの前になると、長いレースで大量のエネルギーが必要だと絶好の言い訳が有ったから
 たらふく食べた。
 そのおかげか、パリ~ルーベで腹が減ったことが無い。
 
 パリ~ルーベで失敗したのは1976年だ。
 スプリントの自信を持ち過ぎ仕掛けるのが早過ぎ、マルク・ドメイヤーとフランチェスコ・モゼールに抜かれた。
 逃げの集団にいた時に働き過ぎたのは間違いない。
 あの頃は俺の全盛期だった。
 やる気は満々だったが、自身を持ち過ぎゴールスプリントで必要なエネルギーを使い果たしていた。
 
よく練習したのはメルクスも同じ。やはり地道な練習が重要なんですなぁ。


参考文献
CYCLE SPORT
ROGER DE VLAEMINCK  Kennedy Brothers刊

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パリ~ルーベその1

紙の中のロードレース その2
パリ~ルーベその1

1:
北の地獄

パリ~ルーベはコース上にある全27区間程の石畳の過酷さのために「北の地獄」と昔から呼ばれています。
はて、本当?
問題は「昔から」の一言。
道路の舗装が進んだ現代の我々がこの凸凹の石畳の道を選手が走る姿を見れば、特に雨が降ると選手は泥だらけになり確かに「北の地獄」に見えます。
このレースが始まったのは1896年で、当時の道路状況はどこでも同じ様なもので、パリ~ルーベだけ特に酷かった訳ではありません。
なぜパリ~ルーベだけわざわざ「地獄」と呼ぶ様になったのでしょう?
ハッキリ言ってよく分かりません(笑)。
なにせ100年以上続いてるレースですから、どうしても色々な事があやふやになってしまいます。
その中で説得力が強いのが次の記事。
要約すると、↓

主催者のテオドル・ヴィエンヌ(Theodore Vienne)とモーリス・ペレス(Marurice Perez)がル・ヴェロ紙に取材を頼むと、
同紙は自転車競技担当のヴィクトル・ブレイエ(Victor Breyer)を派遣。
ブレイエは凍える雨の中泥だらけになり2日掛けて自転車でルーベまで行った。
主催者の考えを「悪魔の魂胆」と嘲り、こんなレースは中止すべきだと書こうとしたが説得され自分の考えを変えた。

それからしばらく経ち、第一次大戦終終了後のレースでの事。
コースはレマルクの『西部戦線異状なし』の舞台になったフランス北部。
当然ながら戦禍の跡が生々しく、
あるフランス人記者がブレイエの言葉を知ってたらしく、
「ここは北の地獄だ」
と書いた。

これは中々ありそうな話。
宣伝文句に最高であります。
地獄の様なコースを制すれば真のチャンピオンに相応しいですからね。

2:
「4000m個人追い抜き 4分30秒」

選手のインタビューを読むと石畳を走るのはかなり疲れるらしい。
コースに慣れるために試走でレースより遅いペースで走っても疲れるそうです。
それがレーススピードになるととんでもない事になります。
SRMを初めとするパワーメーター(=出力計、出力計測器)の誕生のおかげで具体的な数値と出力が分かって来ました。

石畳をレーススピードで走り、更に先頭集団にいるには550wの出力が必要。
これを分かりやすい数値にすると、
「4000m個人追い抜き 4分30秒」
とほぼ同じ値になります。
ブラッドリー・ウィギンス(Bradley Wiggins)によると、彼が4分30秒以下で走った時は580w~600wだったこの事。
1000mと1分7秒台で走るのと同じだから、我々ち~と自転車に乗りどんなもんか知ってる素人にはただ絶句、唖然、茫然自失の値。

パリ~ルーベ石畳区間をレース中だいたい2分から6分で走り、各区間の間は、時間では2分から20分。
この短い「休憩時間」を挟んで4000m個人追い抜きを28回もやるんだから、またしても絶句、唖然。
そしてもう一つ忘れちゃいけない事は、パンクや落車等の事故を避けるためには石畳区間は先頭か、出来るだけ先頭に近い所で走らねばならない事。
つまり、石畳に近付くと、特に最初の方は、ゴールスプリント並に集団のスピードが上がるんです。

出力を利用したトレーニングの世界的権威ハンター・アレン(Hunter allen) によると、
パリ~ルーベの石畳区間を走る選手は実行出力閾値(=Functional Power Threshold, FTP)の120%~200%で2分~4分間走ってるそうです。
(?→この辺の事は個人的に興味が無いので残念ながら分かりません(涙))

石畳のもう一つのクラシックレースと言えばフランドル一周で、ここの石畳の上り坂をレーススピードで登るにも、やはり、450w~760w必要。

優勝争いに加わるには、まず1分間の最大出力が700w台にならなければお話にならんそうです。

3:
「運」

優勝するには、最高出力だけでなく持久力と繰り返し現れる難所をこなすために回復力も重要です。
ハンター・アレンは30秒以内に回復する能力が必要と言い、2004年に優勝したマグナス・バックステット(Manus Backstedt)も長距離の練習の時、
20分間のFTPトレーニングだけでなく30秒のインターバルも加えています。

しかしながら、実力だけでなく、やはり、「運」も必要です。
好例が1981年のレース。

 1981年、ベルナール・イノー(Bernard Hiault)は5人のフィールドスプリントを制し優勝した。
 表彰式、インタビュー等優勝にお決まりの事を済ませると最後に残ったドーピング検査へ向かった。
 その間、記者達は立て掛けてあるイノーの自転車の前輪の白い斑点の様な物に気付いた。
 それは、よく見るとチューブだった。
 イノーが検査から戻ると記者達はチューブがはみ出ていると教えた。
 イノーがタイアを強く握るとプシューと音を立て空気が抜けた。
 「そうだな、これはもうダメだ」とイノー。
 この日の勝利は1本の糸で吊るされていた様だった。
 レースがあと100m長かったら結果は違っていたかもしれない。



今回の参考文献
Cycle Sport
Pro Cycling
A century of cycling

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マヴィックのニュートラルサービス

紙の中のロードレース その1
マヴィックニュートラルサービス

マヴィックのHPに行くとパリ~ルーベでのマヴィックのスタッフの奮闘振りの動画を観られますが、
詳しい事は全く書かれていません。
では、僭越ながら私が(笑)…

1:
「始まり」

マヴィックのHPにも書かれいる様に、ニュートラルサービスのキッカケは1972年のクリテリウム・ド・ドーフィネ。
どっかのチームのサポートカーが壊れ動かなくなり、当時のマヴィックの社長ブルーノ・ゴルマン(Bruno Gormand)が
自分の車を貸してやった事。
これがどの本を見ても、どこのチームだか分からないんです(涙)。

実際にレース中、選手の所属チームに関係無くどの選手でも使える「機材提供」(=ニュートラルサービス)を始めたのが、
これもマヴィックのHPに書かれている通り翌1973年のパリ~ニースから。

2:
ツール・ド・フランス

世界最大の自転車レースと言えばツール・ド・フランスで、マヴィックも勿論ニュートラルサービスを提供しています。
しかしながら殆ど活躍しません。2000年のツールでは1回もパンクなどで車輪交換をしなかったとか。
山岳区間を除いては集団が大きくばらけることがなく、各チームのサポートカーが直ぐに選手のところに辿り着けるからです。
スタッフのインタビューを読むと、
「確かに大きなレースだけど別にイライラしたり不安になったりすることもないし、
我々にしてみればいくつもあるレースの一つで違いと言えばやたらと人がいる事位」
なんて書いてあります。

3:
パリ~ルーベ

そんなマヴィックにとっての「最大」のレースと言えば、パリ~ルーベ
HPにあるビデオがニュートラルサービスだけでなく、パリ~ルーベのビデオが有ることからも窺えます。
このレースで使うのは、
★車輪→120本
 パリ~ルーベ専用でアネシーの工場で保管。
 32穴か36穴のリムを全て昔ながらの手組。
 年に1回しか使わないので20年間も使ってる車輪もある(→おそらく前輪)。
 タイアは色々なメーカーから供給されてるが、チューブラはビットリアのみ。
 パリ~ルーベ後、120本分の車輪とタイアを整備するのに掛かるのが、
 160人時。
 2人掛かりで2週間。
 一人で週に40本、一日では8本。
 一人で1時間で1本。
 (→リムの交換があればスポークも全て変えるから、これ位掛かるね)
 (→それにプロは少しでも傷の有るタイアは使わないから、使った車輪に付いてるタイアは殆ど張り替えでしょう)
★モーターバイク→4台
 後ろのラックに車輪3本。
 後ろに座ったメカニックが2本手で持つ。
 重要な点は、常に使える車輪を運んでいる事。
 1本でも車輪を交換したらマヴィックの車を探し出し、新しい使える車輪を補充する。
 時と場所により出会うのがかなり大変な時がある。
★車→4台
 車輪は最大30本搭載。
 レース中は他の関係車両と同じ位置。
 集団の前、レースディレクターの車と共に1台。
 集団の後ろ、レース審判の車と共に1台。
 残りは更にその後ろ。
 エンジンを保護するためにエンジン下部のアルミ板を付けている。
 それでも2000年のレースでは3台の車がエンジンを壊した。
★トラック→2台
 1台はアランベールの森で待機。
 もう1台はゴール地点で待機。
 モーターバイクが車輪の補充にやって来る。
★人→17人
 テレビ放送でも分かる通りマヴィックを初め各チームのメカニックが活躍するパリ~ルーベはかなり危険。
 そのため新人は他のレースで経験を積む必要がある。
 モーターバイクの運転手とメカニック両人共コツを覚え仕事に習熟する事が安全に仕事をする事にもなる。
 スタッフは全員コースを熟知しているので審判団やASOを気にせずどこへでも行ける。
 このどこへでも自由に行ける事は、同時にレースを波乱なく運営する大きな責任も担ってる。
 メカニックは全員元選手でこのレース自体と車輪交換のやり方を知っている。
 何も知らない人間に素早く車輪を交換するのを教えるのは難しく、パリ~ルーベのために訓練するのは不可能。
 特にバイクに乗るメカニックを訓練するのは絶対無理。
★自転車
 ここ10数年はキャノンデイルを使用している様です。
 サイズは、54、56、58.
 各12台で合計36台。
 女性用に650cの車輪の自転車も有り。
 昔ながらのペダルにクリップとストラップ付きで妥協。
 なぜゴールまでマヴィックの自転車で行かないかと言うと、各チームのサポートカーが自転車を交換出来るだけの道幅が広い所まで行ければ十分だから。
 
4:
エタプ・ド・ツール

 1年の内で、パリ~ルーベと同じ位忙しくなるのが、エタプ・ド・ツール
 バン3台、車2台、モーターバイク1台、人員10人、
 で対応。
 プロと違い素人相手なので車輪交換ではなく、出張修理と化す。
 スポーク切れなんかは極普通の事で、過去にはBBやペダルを交換したこともあった。
 まともに動かない自転車で参加したアメリカ人までいた。

5:
 「数字で見るニュートラルサービス
 
 70→1年に参加するレース数
 260→1年に参加するレース日数
 350→1年に供給されるタイアの本数
 75→2000年のパリ~ルーベで車輪交換した回数
 7830→1973年~2003年(30年間)の参加全レースで車輪交換した回数


★参考文献
 CYCLE SPORT(英国)
 PROCYCLING(英国)
 BICYCLING(米国)
 その他
 曖昧な記憶を確認しようと蔵書を探しましたが、発見出来ない物も有りました(涙)。
 間違いは全て私CYPRESSの責任です。

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プロフィール

Author:CYPRESS
最近好きな女優は杉村春子と中谷美紀。
好きな監督は黒澤明と張藝謀。
気になる監督は堤幸彦。
山田孝之の実力が分かってきました。

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